28日の日曜日に、高森顕徹先生から音羽の明詮という人の「雨だれの説法」のお話を聞かせて頂きましたので、それについて振り返ってみたいと思います。
その昔、明栓という人があり、真剣に仏道修行をしていましたが、三年経っても救いにあうことができず、「自分は駄目な人間なのかもしれない、今はこれまで」と、決心して先生に永遠のおいとまを願って出ました。
師僧は残念に思いましたが、余りにも明詮の決意の程が堅いので慰留をあきらめ、それを許しました。
しかし、さすがに永年苦楽を共に修行した師や法友と別れるのはつらく、明詮は泣きながら寺を出ました。
ところがその時、俄かに大雨が降って来たので、止むなく山門の下に腰を下し、雨の晴れるのを待ちます。
その時、何気なく山門の屋根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がつきました。
「こんな堅い石に、どうして、こんな穴があいたのだろう。
まぎれもない。それは雨滴の仕業ではないか。
このやわらかい水滴が、この堅い石に穴をあけたのか。何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。
仏法の重さを知らなかった。後生の一大事を軽くみていたのだ。
たとえ、水のような力のない自分でも、根気よく求めてゆけば必ず魂の解決が出来るに違いない。」
と奮然として、その場を立った明詮は、水から受けた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進して、後に音羽の明詮といわれる大徳になったと言われています。
何事も、続けるということは苦しいことであり至難の業です。
この世の事でも成功する人が少ないのはその証拠でしょう。
楽なことでも続けると苦になるのですから、真実を求め続けるということは更に難しいことを教えられています。
このお話を聴聞して、大変勇気づけられました。