昨日、親鸞会館での御法話の帰りに駅までタクシーを乗り合わせた方の中で、親鸞聖人の教えを聞き始めて4年目になるという方がありました。
その方は、
「今回の御法話では、親鸞聖人の言葉の選び方の慎重さに驚かされた。」
「『天におどり地におどる』と説明される、この世で阿弥陀仏に救われた喜びの心とは、一体どんなことなんだろう?」
と少々興奮気味に言われていました。
私も同じことを思っていたので、意気投合して駅に着くまで話していました。
特に、「おどる」と表現される喜びの心は、「どれだけ喜んでも疲れない」とお聞きして、どんな喜びだろうかと、とても想像ができませんでした。
どんな楽しみも、遅かれ早かれ疲れてきます。
それは肉体の喜びであり、阿弥陀仏に生きている時に救われた喜びとは全く違うのだということがわかりました。
なお、今回教えて頂いた喜びの心については、「救われたら本当に大慶喜がおきるのか 」という以下のページに詳しく書かれています。
どうぞお読み下さい。
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0413.htm

私も「心の喜びはどれだけ喜んでも疲れない」と聞かせて頂いた事が心に強く残りました。私たちが知っている、求めている喜びはいつか色あせ、苦しみに変わってしまうものばかりです。躍り上がる喜び、変わらない歓喜。正信偈の最初の二行で叫ばれている阿弥陀仏に救われた喜びが迫ってくるように感じました。